いまやパンク・アルバムの代表作といえるラモーンズのファースト・アルバムのカバーを撮影したロベルタ・ベイリー女史。元CBGBの店員だったこともあり、75年頃のNYのアンダーグラウンド・シーンを文字通り目の前で見てきた人物だ。現在60歳という彼女が、ワインを飲みながらガールズ・トークを炸裂させてる姿はとてもそんな歳にはみえない。そんなフランクなロベルタが「偽りのない貴重な実話」を語ってくれた。

●日本の印象を教えてください。

──最初の来日は2006年の10月くらいだと思ったんだけど、日本は活気があってとても刺激的だったわ。写真家としても日本の景色や風景などビジュアル面からのインパクトを感じたし、それにとても楽しかったわ。

●生まれはNYなの?

──私はカリフォルニア生まれ。そのあとシアトルやパサディナでも生活してるけど、21歳くらいまではノース・カリフォルニアで育ったというのが正しいわね。その後ロンドンに行ったのよ。

●ロンドン? それはもしかしてビートルズの影響?

──そうね。私は確かにビートルズのファンだったわ(笑)。ティーン・エイジャーの時にビートルズは3回見て、ローリング・ストーンズは6回見てる。他にもザ・バーズやフレーミング・グルービーズとか。ブリティッシュ・バンドが多いんだけど。サンフランシスコで見てるの。当時サンフランシスコはラブ&ピースの時代でクールだったし絶対的だったのよ。その後、ロンドンに3年間住んだのよ。まだパンクが誕生する前のこと。

●NYにはいつ頃移ってきたの?

── 1974年頃。ラモーンズを最初に見たのもその頃で、確かNYのパフォーマンス・スタジオっていうところで見たわ。そこはリハーサル・スタジオみたいな場所で、友だちを集めてショウみたいなのをやるから「ちょっと見にきこないか」って声をかけられて。ブロンディとかリチャード・ヘルとかみんなで見に行ったわ。

●その時の印象は?

──ひと言で言うと「あっけにとられた」。みんな口をあけてぽかーんと見てる感じ(笑)。

●ロンドンから故郷のカリフォルニアに帰らずにNYに直接向かったの?

──そう。もうロンドンは何も起こらなかったし、お金もなくなっちゃったし。そしたら航空会社に勤める友だちが片道の航空券をくれたから、それでNYに行ったの。

●それはラッキーじゃない? 当時の飛行機代って高いでしょ? それでCBGBで働くことになったの?

──いいえ。NYには知り合いが誰もいなかったから、ロンドンで「ここに電話をかけるといいわよ」というリストを作ってもらって、いろんな人に電話をかけたのよ。当時ヴィヴィアン・ウエストウッドと友だちだったから、最初に電話した女の子が「ヴィヴィアンの知り合いだったら、うちに泊まっていいわよ」って泊めてくれたから数日はそこにころがりこんでたわ。 それからそんな風に転々としながら泊まり歩いてて、お金もないからベビー・シッターのバイトで食いつないだの。友だちには「おまえ、NYで何をやりたいんだ?」と聞かれたから「ニューヨーク・ドールズが見たいわ」って答えてたわ。

●ビートルズやストーンズは見てるのに、ニューヨーク・ドールズはまだ見て見てなかったの?

──そうなのよ。自分がカリフォルニアの時は彼らはロンドンに行ってたし、ロンドンにいる時はアメリカにいたりで、うまくタイミングがあわなくて、やっと見ることができた。彼らに関してはあまりいい噂もたってなくて、でも見たことないから、どんなもんか見てみたいと思ってたし。それでようやくCLUB 82っていうライブ・ハウスで見られたわ。誘ってくれた友だちがメンバーとも友だちだったから、そのあとのパーティーにも参加できたし。

●差し支えなければ、その1974年は何歳だったのか教えてもらえますか?

──24歳よ。今は60歳。

●ルックスお若いですね。24歳までにすでにいろんなバンドを見てるけど、1番好きなバンドやアイドルは誰ですか?

──年齢によって変わっていったから、誰とは言えないんだけど、例えば14歳の時はビートルズ、16歳の時はザ・バーズ、19歳の時はフレーミング・グルービーズだったわ。ロンドンに住んでた時はイアン・デューリーとつきあってたんだけど…。

●え? イアン・デューリーってあのイアン・デューリー? これ書いちゃっていいの?(笑)

──ええ。書いてもいいわよ。彼のことを書いた自伝にも私とつきあっていたこと書かれてるから。

●知らなかった…(笑)。

──彼はまだパブで演奏してて、まだ売れていなかったけど、彼とはロンドンにいる時に最高の恋愛をしたわ。別れてからも彼からは20枚にも及ぶ小さい文字でぎっしりのラブ・レターが届いたてわ。イアン・デューリーの書籍の中でも私のことにもふれているし、手紙もみせているから、公然の情報。今は手紙だけの本の出版予定もあるのよ。

●へええ。ご自身の写真集や本を出版しようとは思わないの?

──ブロンディの写真集は出したわ。現実的な話、それをやるには相当の労力がかかるしずっとデスクの前に座っていなきゃいけないでしょう? 誰かに書いてほしいわ。いろんな友だちに「本を書くべき」と言われるんだけど、もし自分が出すなら、やっぱり写真が沢山あるし、その時に何があったのかを自分の言葉で説明した写真集をだしたいわね。私が重要なんじゃなくて、私がかかわってきた人たちが重要だから、その観点で書くべきと思ってるのよ。

●それは本当にそうですね。ラモーンズのイン・サイド・ストーリーや正しい歴史もとても大事だけど、側で客観的に見ていた人たちの意見も実はリアルで大事ですから。それはぜひ実現させてほしいです。

──ロンドンにいた頃には何もおきてなかったっていう印象があったんだけど、NYに来たらいろんなことがスタートする時で本当に刺激的だったのよ。その時は大きな事じゃなかったんだけど、新しいことが始まる予感はしたわ。

●ラモーンズの実験的なショウを最初にスタジオで見てますよね? その時に何かが起こる予感はしたの? 

──OH MY GODよ。その時私はリチャード・ヘルとつきあってたから…

●え? NYに住んでからリチャード・ヘルとつきあってたの?(笑)

──そう。その頃はリチャードとつきあってたのよ。そんなに長く続かなかったけど一緒に住んでたの。だから、私も彼とスタジオにラモーンズを見に行ったのよ。それでラモーンズときたらガーーーーっと演奏してはぴたっと止めてお互いギャーギャーケチつけあって、またガーーーっと轟音で演奏しての繰り返し。ほんとにみんな口をあけたまま、その様子を見ているって感じだったわよ。こんなの見たことないってね。

●ははは。初期の映像にもそんな場面が残っていますね。

──とにかくショッキングだったわよ。なにが 起こっているのかわからないという感じで。1970年にイギー・ポップ&ストゥージーズを見た時と同じくらいの衝撃だった。3人なのに凄い音で。あれと同じものを感じたわ。

●イギーもニューヨーク・ドールズもルックスやビジュアル的にもかっこいいんだけど、皮ジャン着こんだラモーンズを見て正直、当時の女の子たちはどう思ったのかな? (という日本語の質問をさえぎるように)

──その質問は英語に訳さなくてもわかったわ(笑)。ラモーンズを見た時は、彼らがかっこいいかどうかよりも、何がおきているのかわからない衝撃の方が凄かったわ。とにかく凄いことが起きているというインパクトは相当なものだったのよ。何か大変だーみたいにね。ラモーンズの登場はもうとにかくインパクトでみんなやられてたのよ。

●あの当時、ラモーンズは売れると思っていましたか?

──ダニー・フィールズが契約した時には、ラモーンズは完璧な状態になってたから、彼らがビッグになることは想像できたわ。

●ところでCBGBはいつ頃から働き始めてたんですか?

──CBGBにリチャード・ヘルが出始めたっていわれてるんだけど、1974年の春ごろから。その後リチャードと一緒に住んでいたから、それでCBGBに行くようになって、オーナーのヒリー(クリスタル)が、「じゃあ入り口でチケット係をやってよ」ってことになって、それから働き始めたのよ。入り口のチケット係は男がやるより、女の子が笑顔で「2ドルよ」って言ってた方がカンジいいでしょ? 

●当時のチケット代は2ドル? 時給はいくらだったの?

──2バンド出ても40ドルか50ドルしかバンドは稼げないのに、私は一晩10ドル貰えたわ。当時の状況は演奏させてくれるところは無かったから、演奏させてくれるならいくらでもいいよというのがバンドの考えだった。ギャラがどうのこうのあまり気にしてなかったと思うわ。やれるところがあるという方が大事だったのよ。私がドア係をやっていた頃、まだラモーンズはバンドも結成してなくて、テレビジョンを見に来てた観客だったのよ。

●ラモーンズをCBGBで初めてみたのはいつ頃だった?

──ラモーンズはCBGBに出てる頃にはダニーと契約もし、そこそこ人気が出始めていた頃だったわ。ダニーの知り合いが繋いでくれたジョニー・ウィンターの前座もやったりしてたみたいだけど、そこではボトルをなげられたりさんざんたったみたいだけど。CBGBでは誰かの前座でやるような日はなかったわ。

●パティスミスやテレビジョン、そしてラモーンズを見るためにCBGBにやってきたセレブで覚えている人は?

──そうねぇ、ポール・サイモン、リンダ・ロンシュタット、ルー・リード、キンクスのレイ・デービス。あとは思い出せないわ。たくさんの「有名人」が見に来たけど、彼らにとってCBGBは汚すぎたわね。

●ファースト・アルバムの撮影の話を聞かせてもらいたいんだけど。あれは本当はレコード会社が雇ったカメラマンの写真が気に入らなかったから、あなたに撮影を依頼したのは本当?

──元々彼らのカバー写真は、当時で2000ドルを支払ってプロフェッショナル・フォトグラファーが撮ったのよ。でもその写真は顔のアップがメインのカバー写真でメンバーの誰一人気に入ってなくて、他の写真を探すことになったの。

●撮影ではなく探す?

──そう。もうレコード会社も予算がないから撮影なんてできないってことになって。私の撮った写真はPUNK MAGAZINE用に、76年の3月頃に撮影した写真だったから、最初は編集長のジョン・ホルムストルムは怒ってたわ。「なんでうちの写真を使うのか」って。メンバーは写真をみせろって言って持ってっちゃって、2点選んだのよ。それがあのカバーと別バージョンの笑っている写真。笑っているのを広告用に選び、私に125ドルを払うことで決まったのよ。レコード会社がやとったカメラマンは2000ドル以上持って行ったのに、写真は未使用。それでジョンに対してはファーストのカバーに「この写真はPUNK MAGAZINEの協力を得て(courtesy for Punk Magazine)」の文字を載せるということでジョンも納得したのよ。

●なるほど。撮影の時にメンバーに並び方や立ち位置を指示しましたか? トミーには小さいから石の上に乗れとか言ったの?

──「もう少し寄って」くらいは言ったけど、あとは何も指示しなかったわ。並び方も全部彼らが好きなようにやったのを撮っただけ。だけど、メンバーがあの写真を気に入ってるのはみんなの背が同じくらいに見えるからなのよ。トミーは背を高くみせるために石の上にも乗っておへそまでわざと出して(笑)。ジョーイは少しかがんでいるでしょう? でもトミーがあの石のふちに乗っているってことも最近までちっとも気がつかなかったわ。でも、ジョーイの隣で背の高さとバランスは気にしていたわ。

●トミーは背を高く見せるためにおへそを出したのか(笑)。この撮影にどのくらいの時間をかけましたか?

──そうねぇ、1時間足らずかなぁ。家の中でも撮ったりして。

●家の中? アートゥロのロフト?

──そう。家のドアの前やあとは近所の公園。彼らは60年代のバンドのカバーを沢山見てるから、どんな感じの写真を撮りたいかはわかっていたとは思うわ。50年代はいかにもスタジオのショットがメインの時代。60代はそれが少し変化してきた時代。ビートルズのカバーを見てもわかるけど、後半はアルバム『ABBEY ROAD』みたいに外で撮影もするじゃない。

●カラー・フィルムでも撮影してる?

──撮ってないわ。だってPUNK MAGAZINEにカラー・ページはないもの。

●結局、PUNK MAGAZINE用に撮影したあのカバー写真はPUNK MAGAZINEには使わなかったんですよね? そのページにはどんな写真が掲載されたんですか?

──その時に撮った他の写真を使ったわ。この記事はPUNK MAGAZINE編集長のジョン・ホルムストロムが今制作中のPUNK MAGAZINEのムック本「The Best of Punk」に載るわよ。

●カメラとフィルムは何を使っていたの?

──カメラはペンタックスのSpotmaticっていうを使ってて、モノクロ・フィルムはずっとTRY Xを使っていたんだけど、まだ4ヶ月しか撮影したことなくて、どのフィルムがいいか分からなかったのよ。プロのカメラマン達が「PLUS Xというフィルムがデイライトにいい」と言ってたから、それをこの撮影に使ったんだけど、あとになってプロのカメラマンたちが「PLUS Xはぜんぜん良くない」って。だから、そのフィルムはこの時しか使ってないの(笑)

●この時だけか(笑)。ちなみにあなた自身は撮影をスタートしたのはいつから?

──カメラを買ったのが1975年で、CBGBにテレビジョンの出る日はサンデー・ナイトって決まってたから、それを撮り出したのよ。当時、100 unsigned Band っていうフェス(契約をしていないインディ・バンドのフェス)があって、それも撮ったりしていたわ。

●1975年頃は女性フォトグラファーという仕事はメジャーでしたか?

──1975年以前にファッション誌『ヴォーグ』や『ハーパーズ・バザール』で多くの女性フォトグラファーは成功していたわ。30年代、40年代も女性の写真家は存在していた。だからメジャーだと思う。 ペニー・スミス、リン・ゴールドスミス、アニー・リボビッツは1974年からスタートした成功した音楽写真家。彼女たちと比べると私は出遅れた感じだし、それに怠け者だったの、だから写真家としてはやっていくのは大変だったのよ!

●写真を撮りながらCBGBで働いていたの?

──テレビジョンとパティ・スミスの週末は100人以上集まって店も混んでいたけど、月曜日とか火曜日はそんなに人もいなかった。でも週5日は働いていたわ。そのうちブロンディもラモーンズもビッグになっていって、CBGBでのライブというのもなくなってきて、1978年頃のCBGBはそんなに大盛況ということもなかったから、その頃には店で働くのを辞めたわ。

●ところでCBGBのトイレはドアがないことで有名だけど、それはなぜか教えて?

──え? 私のいた頃はトイレにドアはあったわよ。あなたはいつ頃CBGBに通ってたの?

●初めて行ったのは1986年。そのあと1991~2年は長くNYにいたんだけど、その頃は地下のトイレはもうドアがなかった。

──まず私のいた頃のCBGBのトイレは地下じゃなくて1階のステージの奥だったのよ。ちゃんとドアもあったわ。でも、ドアがなくなったのはセックスやドラッグがそこでおこなわれるからね。

●やっぱり、そうなんだ?

──その頃、NYのMAD CLUBなんかは、男女分かれていないユニセックス・トイレ(共同)が流行ってたのよ。男と一緒にトイレに行けることを「ワオー、ワンダフルじゃない?」って喜んでいた女の子たちもけっこういたのよ。私のスタイルじゃないけれど、その方が好都合って理由で(笑)。

●フリー・セックス時代のリアルな話しね(笑)。

──ドラッグとセックスはセットの時代だから。ここで(トイレ)どうぞやってくださいなんて、用意されたようなオープンな場所でやるより、私はもっとスリルのある場所でやる方がいいと思うけどね(笑)。

●このテーマでもっと話しを聞きたんだけど、時間がなくなりそうなので(笑)。トイレの話になったので、CBGBのトイレでも写真をとってますよね?

──リンダ・スティンとDEE DEEの写真を撮ってるわ。あと友だちをモデルにして紙袋をかぶせた写真とか。

●映画『END OF THE CENTURY』に登場する女性2人について聞きたいんですが、もし知ってたら教えて。元DEE DEEのガールフレンド、コニーと元ジョーイのガールフレンドで、ジョニーの妻、リンダについて。

──コニーのことは良く知らないの。映画で語られているようにアーサー・ケインの彼女だった時にツアーに行ってほしくないから指を切り落とそうとしたとか、そんなことくらい。リンダは良い女の子だったわ。ただJoeyにとって不幸なことに、彼女はJohnnyに惚れてしまって、それでJoeyは深く傷いてしまった。でも彼女はジョニーとずっと一緒にいたからあれは本当の恋愛だったと思う。 今はラモーンズの「財産」の権利問題で言い争いが絶えないみたいたけど…それは恥ずかしい事だと思うけど。

●CBGBが終わった時どんな気持ちになりましたか?

──自然な流れという感じはしているの。全盛期があって、そうじゃない時期もあって。最後はみんながSAVE CBGBでまた声をあげてくれたから、それで盛り上がってまたCBGBのことを記事にしてくれたりして脚光をあびて。オーナーのヒリーが亡くなる前にNYのお店が終わっちゃって、それでその後ヒリーは店をラスベガスに移すとかいろんなことを考えていたみたいだけど、彼も亡くなって、その構想も終わった。 ヒリーがいないCBGBっていうのはあり得ない。ヒリーがいないままどこかでCBGBがオープンしているなんて、すごく変な感じだもの。だからヒリーが亡くなってCBGBもなくなって私はそれで良かったと思うわ。

●映画の中でジョニーが「CBGBのヒリーに金を渡したくない」というようなセリフも吐いていますが、ヒリーというのはあなたにとってどうゆう人ですか?

──ジョニーは自分のイメージを演出してたんだと思う。みんながヒリーのことを良い人と言えば、ジョニーはちょっとひねくれた言い方で彼のことを悪く言うみたいな役割というかね。ヒリーはNYの私のパンクの父。会ったことある? 熊みたいに体も大きくてダイナミックで、変人もアーティストも負け犬も、普通の人が受け入れないものを全てうけいれてくれる寛大さがあったわ。メロウでフレンドリーで温かくて大切な人だったわ。

●CBGBの隣にホームレス・シェルターがあったけど、それもヒリーやCBGBの存在と関係してるの?

──NO。あそこはむしろ敵みたいなもので、あのホームレス・シェルター組織が家賃を2倍にしたから、だんだん払えなくなって存続できなくなったのよ。

●ヒリーに近かった人から彼の良い部分の話も聞けて良かったわ。あとダニー・フィールズはどんな人?

──彼は本当に素晴らしい人。私の知る限り正しく教育を受けた頭の良い人ね。彼はパンクと同じくらいオペラも好き。良いものは良いと考えることが出来る本当にクールな人よ。

●最後にラモーンズの中でつき合うとしたら誰を選ぶ(笑)?

──セクシーなのはジョニーね。ジョーイは背が高すぎて会話が大変だし、ディー・ディーはクレイジーすぎて無理。トミーは紳士でほんとにいい人よ。

●ニューヨーカーの女の子に人気なのはジョーイかと思ってました。まだ聞きたいことは沢山あるけど、今日は忙しい中ホントにどうもありがとう。

──メールくれれば、もっといろんなこと話すわよ(笑)。

★★

*本文中に出てきたジョン・ホルムストロム(PUNK誌編集長)が制作中の「The Best of Punk」は来年発売予定:
http://www.punkmagazine.com
*そのジョンによる描き下ろしイラストのオートバイ用ヘルメットとTシャツが7月中旬発売。
http://www.tachibana-helmet.com/punk_goods.html
*RUDIE'S X ジョン・ホルムストロムのコラボ商品も発売中!
http://www.rude-store.com/shop/product.php?cPath=24_53
*同じくジョンデザインの「PUNK MAGAZINE」のイヤホンも7月に発売!

インタビュー / 畔柳ユキ(yuki kuroyanagi / ラモーンズ・ファン・クラブ・ジャパン)
取材場所 / 東京・恵比寿にて(2010年6月)
写真 / 保田かずみ(Interview Photo)
資料提供、通訳、協力 / モリソン商会


テキスト及び写真 : 畔柳ユキ / Ramones Fan Club Japan (c)RAMONES FAN CLUB JAPAN
ALL TEXT & Photos by (c)yuki kuroyanagi & (c)RAMONES FAN CLUB JAPAN

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